防災・減災への指針 一人一話

2013年10月23日
被災地視察・見学への対応
震災語り継ぎツアーガイド
柴田 十一夫さん

町内会副会長として住民の避難を誘導

(聞き手)
 発災直後にはどちらにいらっしゃったのですか。

(柴田様)
平成23年3月11日は町内会の役員会を開いていました。役員会が終わり、立ち上がろうとした時、地震がありました。地区集会所は平屋建てなのですが、かなり大きく揺れ、宮城県沖地震が来たと思いました。集会所の前にある家の屋根瓦が落ちたりして、揺れが収まってから役員が手分けをして町内をパトロールする事にしました。
すると、町内の人たちが外に出て道路に座り込んでいて、中には泣いている方もいました。「大丈夫ですか、怪我はないですか」と声を掛けながら一回りしていた時に、今度は津波が来るという情報が入りました。
消防車が広報していて、町内の人たちに、「大きな津波が来るので避難してください」と伝え回っていました。私たちの町内会で指定されている避難所は高崎中学校で、大きな災害の時に使用することになっています。そこで、「高崎中学校避難してください」と皆に呼びかけ、みんなが避難所に向かったことを確認しました。幸い、津波は私の地区までは来なかったので、夕方に避難所に向かいました。
電気も水道も止まっていましたので、家族と避難所に行きました。私は町内の方たちのお世話をしながら、約2週間避難所で過ごしました。市の職員も避難所に4~5人詰めていましたが、手一杯な状況でしたので、食糧の配布や救援物資の整理などの手伝いをしました。学校の先生方も大変献身的に協力してくれました。

避難所運営と避難者のグループ化の効果

(聞き手)
 当時の対応や出来事で大変だった事は何でしたか。

(柴田様)
震災時、最初の晩がとても寒かったことです。食べ物も、防寒着も十分に用意されていませんでした。大きな体育館の中に、一番多い時で1300人くらいの人がいましたが、それでも寒かったです。
その後、町内会で常備している発電機を持っていき、照明を一部点灯しました。学校で大きなジェットヒーターを2台用意して頂きましたので、それを使用して少し暖かくなりました。
それと、大変だと思ったことは、食べ物にアレルギーを持っている人などがいることでした。乾パンは固いので、お年寄りには食べられませんでした。柔らかい物があれば良かったのですが、そういったものもありませんでした。最初の配給で、おにぎりが300個ほど届き、お年寄りや子どもの方を優先して配布しました。
避難者の中には、なぜこちらにおにぎりが来ないのかと言う人もいましたが、あの状況の中では、みんなに平等に配るということは難しい要望でした。
3日目くらいから皆さんも少し落ち着き、それぞれ自治会的な組織のグループを作りました。体育館の掃除をしよう、トイレの水を用意しようなど、色々と活動し始めました。

(聞き手)
3日目からグループが出来始めたというのは、自然に出来上がったということでしょうか。

(柴田様)
市職員と相談し、そうしようと提案しました。リーダー1人に連絡すれば、リーダからグループの人たちに伝えられるように連絡体制などを整えました。スムーズに運営するためにはどんなやり方が良いのかみんなで相談した上で、グループを作りました。

避難所運営における準備と備蓄への重要性

(聞き手)
 仮にまた災害が起きたとして、その時に必要になる事は何だとお考えでしょうか。

(柴田様)
災害の時のマニュアルは普段から準備がされていると思いますが、あれだけ大きな災害になると、なかなかマニュアル通りにいきませんし、市職員も、そういう意味では混乱していたと思います。
最初から統制の取れた避難所運営は、やはり無理だと思います。それはやむを得ないことだと思うので、万が一大きな災害があって避難所を開設する時に、どんなやり方、どんな進め方がいいのかなどの決まりを、日頃から準備しておく必要があるだろうと思います。
それと備蓄です。きちんと必要な数を準備していることが大切だと思います。
支援物資についても、こちらからこんな物がほしいということで届く訳ではないので、例えばおにぎりにしても、こんなおにぎりが欲しいとか、食べ物は柔らかい物があればいい、などありますが、支援者は、状況が分からないまま送ってくださいますから、それをどのように分配するかを考えるのが難しいと思いました。
インスタントラーメンが来てもお湯がなく、初めは食べられませんでした。自衛隊が来てお湯を沸かしてくれたのは3日間後くらいでした。最初は、赤ちゃんにミルクをあげるため、市職員がお湯を沸かし、それをポットに入れて準備していました。
それと、避難所にイヌ、ネコなどのペットを連れて来る方がいましたが、体育館に一緒には入れませんでした。イヌ、ネコが嫌いだという人がいるからです。その人たちの部屋をどうしたら良いか悩みましたが、高崎中学校側で、この部屋を使用して良いとすぐに決断して頂いて大変助かりました。学校の先生は校長先生を含めて、皆さんとても協力的で、生徒さんを上手に指導してくださいました。生徒さんがプールの水をバケツで汲んで、各階のトイレ用の水として運んでくれました。非常時には皆、心も体も力も一つになるのだなと実感しました。

宮城県沖地震の体験と風化

(聞き手)
宮城県沖地震や、チリ地震が過去2回あったと思いますが、そのような経験を、今回活かせた点、教訓になった点はありましたか。

(柴田様)
宮城県沖地震の時は仙台市にあった勤務先のビルの3階にいましたが、窓ガラスが割れるなど、凄い揺れで、この世の終わりだと思いました。部屋のキャビネットは倒れ、机は隅に動いて、その場にいた同僚の女性社員は泣き出すなど、本当に凄かったです。
私自身が地震や津波に対して、何を備えていたかというと、非常持ち出し袋くらいでした。それも比較的最近になって用意していたものでした。自然災害の怖さが叫ばれていて、非常持ち出し袋が大事だと聞いていたからです。懐中電灯や携帯ラジオなどは常に用意していました。水はペットボトル1箱くらい用意していましたが、今回の災害では、まったく足りませんでした。

(聞き手)
宮城県沖地震の経験は、やはり時間が経つにつれて、少しずつ風化していったという事でしょうか。

(柴田様)
本当に風化していました。
今振り返ってみると宮城県沖地震は、被災した範囲が狭かったと思います。今回は青森県から千葉県まで範囲が広く、特に、岩手県、宮城県、福島県の3県が大きな被害を受けました。宮城県沖地震では、大きな被害を受けたのは宮城県くらいだったと思います。相当大きな地震でしたが、山形などの隣県から救援物資がどんどん届きました。

被災地視察・見学の受け入れ対応

(聞き手)
 震災語り継ぎツアーガイドを始められたのは、どのような経緯があっての事だったのでしょうか。

(柴田様)
発災直後に、被害の視察などを勉強、研修したいという申し込みが、全国各所から市に対してありました。
また、JTBさんが被災地についての視察研修を企画し、全国に呼びかけました。JTBさんが多賀城市に注目したのは、仙台駅からも仙台空港からも近いという地理的に交通の便がいいという事でした。1泊するだけで研修や視察も可能な場所でしたので、JTBさんからの申し出が市にありました。多賀城を視察した後、松島や秋保に宿泊して次の日に帰るコースや、仙台に行くコースが設定されました。
初めは市職員が説明などをしていましたが、だんだん視察の数が多くなってきて、そちらに時間を取られ、本来の仕事である復旧業務が出来ない状況になりました。そこで、私たち史跡案内ボランティアに対し、案内の依頼がありました。ボランティアの仲間たちと相談して、引き受ける事にしました。会員は28人ほどいますが、実際に活動したのは8人でした。会員の中には、自分の知り合いや、親戚が亡くなったという人もいて、その場所に視察団を案内するのは辛い人もいました。ですから、出来る人が行うことにしました。
 本格的に活動したのは平成23年10月から平成25年3月までのおよそ1年半ほどでした。平成25年の春頃になると、多賀城市のほとんどの地域ではがれきもなくなり、壊れた建物も撤去され、更地になっていて、視察団を案内することが難しくなってきましたので、JTBさんと相談して、打ち切ることにしました。
また、JTBさんとは別に、その後も視察の申し込みがあり、いくつかの団体を案内しています。
合計で50~60団体、およそ1,600人を案内したと思います。

(聞き手)
視察に来られたのは、どのような方々なのでしょうか。

(柴田様)
一つは企業関係です。それからその地域の企業で作っている、連絡協議会のような団体です。他には商工会、商工団体などでした。

多賀城市ならではの被害を紹介

(聞き手)
ガイドとして、どのような形で、被災地を案内したのですか。被災の状況を紹介する際にDVDを見て頂くというお話をお伺いしましたが、どのようなものでしょうか。

(柴田様)
震災当日、または翌日の状況について、市民から提供された映像を、市で編集したDVDを最初にお見せしました。ホテルの一室を準備し、そこでDVDを見て頂きました。次に、多賀城市全体の被災状況などをお話します。それから、災害の備えに関するお話をしました。その後に現地をご案内します。現地は仙台港やイオンさんの屋上に案内し、DVDで見た津波が押し寄せてきた所はここですとか、駐車場にあった車が全部流されたのはここですなどと説明しました。時間がある団体については、多賀城の史跡もご案内しました。せっかく来て頂いたので、多賀城はこういう歴史のある街だという事も説明しました。

後世へ伝えたいとの強い思い

(聞き手)
一番遠い団体は、どちらから来られたのでしょうか。

(柴田様)
多い時には月に5つも6つも団体が来られましたが、私がご案内した団体で、一番遠い所からいらっしゃったのは四国の方でした。北海道から来られた方もいました。災害防止協議会や企業の安全対策委員会など、専門的に勉強に来た方たちはやはり、真剣に真面目に話を聞いてくださいました。
私どもの話を聞き、真剣にDVDを見て頂き、現地に行っても「凄いですね」とか「大変でしたね」とか、感想をおっしゃってくれる方がいれば、報われると思っていました。ただ、遠くから来た方たちの中には、この震災を他人事のように感じている方もおり、残念な思いもありました。写真を撮りたいという人には、「撮ってもいいですけれども、地元の人たちに不愉快な思いを与えないように撮ってください」とお願いしました。私ではありませんでしたが、Vサインをして写真を撮っていたというような話も聞きましたので、残念に思いました。

(聞き手)
 ガイドボランティアをしてみて、どうでしたか。

(柴田様)
 この震災語り継ぎツアーガイドについては、少しでも後世に伝えたいという思いで引き受けました。また、市職員の皆さんも忙しく、視察対応に時間を割くと、本来の仕事が遅れてしまい、多賀城の復興が遅れてしまいます。少しでも協力出来るものは協力しようと思って始めましたので、やり甲斐は感じていました。
 もし今後も、多賀城に行きたいのでガイドをお願いしますというようなお話があれば協力しようと思っています。

防災教育の徹底

(聞き手)
 これからの多賀城市の復興に関して、お考えやご要望はありますか。

(柴田様)
 市役所では、市民からご意見やご要望をすでに、沢山聞いていると思います。平成24年の秋に、多賀城市内を地域ごとに分けて、市職員が出向いて市民の人たちと懇談して震災を振り返り、意見や要望などを取りまとめる事業がありました。
私も出ましたが、いろいろな要望が出ておりました。私もそこに出されている事がそのまま、生の要望なのだと思います。
 私は後世にどう伝えるかを考えると、学校教育の中できちんとした防災教育のカリキュラムを設けて、時間を掛けて徹底して教えていく事が大事だと思っています。
私自身、宮城県沖地震を経験しても30年が経ち、忘れてしまったように、今回の地震や津波も、経験した人が生きている間はその経験が活かされるかもしれませんが、経験した方がいなくなってしまった時、または50~100年後にはどう伝わるかという事を考えると、難しい部分があるように思います。したがって、それらを徹底して教育の中で伝えていく必要があるのではないでしょうか。
岩手県釜石市では小中学校に3000人ほどの児童・生徒がいたにも関わらず、1人の犠牲者も出ませんでした。それは群馬大学の片田先生が、徹底的に防災教育をしてきたからなのです。その指導があったため、一人ひとりが自分の意志で高台に逃げ、無事でした。
 人間というのは、自分の生きている間には大きな津波は来ないとか、自分の住んでいる所は大丈夫だとか、そのような意識がどうしても働きます。私は折に触れ、日本列島に暮らしている限り、リスクはどこにでも沢山あるのだと思っています。
例えば地震、水害、噴火、雷、津波、竜巻、いっぱいあります。それでもやはり、人というものは、自分だけは大丈夫だと思ってしまいます。
 少々話が飛びますが、観光ボランティアとして、観光客の皆さんをご案内する場所に、多賀城政庁跡、つまり奈良から平安時代にかけて国の役所があった跡地があります。
その政庁の建物は、朝廷と、元々ここに住んでいた「蝦夷」と呼ばれた人々との間で起きた戦いで焼かれたり、震災の被害に遭ったりして、4回も建て直されています。
そのうちの1つが、貞観11年(869年)の大地震です。
その際、多賀城に津波が襲って1000人もの方が亡くなったという記録が『日本三代実録』にあります。
そのことをガイドでお話しするのですが、これまでは私たち自身が、昔話や伝説のように思っておりました。
ところが今度のような震災や津波を経験しますと、あれは昔話などではなくて現実に起こりうる事なのだと再認識し、それ以降は観光客に対して真剣に話をするようになりました。

復旧・復興施策への要望

(聞き手)
 他に何か、多賀城市の復旧、復興へ向けてのご意見はありますか。

(柴田様)
 まずは、市の計画にある復旧・復興のスピードを上げてほしい事。それから、震災前の状態に復旧する事は本当の意味の復興ではないと思っています。これだけの被害を受け、ただ単に前と同じようになっただけでは意味がないように思います。受けてしまった災害を、新しい街づくりのために活かす考え方をスタートさせ、本当に災害に強い街を作るべきです。50~100年後の人たちが、あの時の地震や津波で大きな被害が出ましたが、今考えてみると素晴らしい街になったと評価してもらえるような街にしていく必要があると思っています。
 それは単に建物を丈夫にするようなハード面だけでなく、災害が起きた時に市民の一人一人がどのようにお互い助け合うかなどのソフト面での人と人の繋がりが強まる、温かい街になればいいと思います。震災直後は、皆の心が一つになったと思いました。しかし、それも時間の経過とともにだんだんと薄れ、風化してしまうのは残念でなりません。これからは、それを風化させないような施策が必要になると思います。

次の災害への備えとして大切なこと

(聞き手)
 今回の震災の経験から、後世に伝えていきたいと思った教訓などはありますか。

(柴田様)
 日本列島で生活するという事は、災害のリスクを負いながら生活するという事です。その事を忘れず、常に備えておく事を生活の中に定着させる事が大事だと思っています。自然災害は、人間の力では防げません。ですが減災する事は出来るはずです。防災歴史に学べという言葉もあります。過去から現在まで多くの自然災害が起こっています。したがって、それら過去に起こってきた災害が、将来起こらない保証はありません。今まで起きてきた事は将来にも必ず起こるという事で、歴史に学べと言われています。少し抽象的ですが、それが大事なのではないかと思います。